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フォーラムレポート

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英語教育東京フォーラム(2008.07.08)

大学生対象の補習授業
        大 釜 茂 璋
 4月期のe-prosフォーラムで、メディア教育開発センター小野博教授(リメディアル教育学会会長)の講演は些かショッキングだった。

 子どもの学力低下がとかく心配され、中でも日本語力の低下については、社会関心もきわめて強いものがある。ところがその傾向に引っ張られるように、日本の大学生の英語力の低下は、小学生の日本語力以上に酷く深刻な状況にあるという。

 その原因は、文法や語彙を軽視したコミュニケーション中心の英語教育にあると小野教授は指摘する。これらは小野教授が会長を務める日本リメディアル教育学会の調査に基くものであるが、一方で大学入試センターの研究からも、1997年の受験生からは大幅に英語力の低下が指摘されるという。

 最近読んだ新聞でも、大学生の基礎学力の低下が記事として取り上げられていた。文部科学省の調査を見ると、高校時代の学習内容を補習授業として特別に指導している大学は、平成18年度の時点で234大学にのぼったという。これは全大学の33パーセントにあたり、前年度より24大学も増えているという。

 基礎学力の低下は、当然大学で教える専門教育についていけないことを示すもので、これでは高等教育機関の使命を果たすことができない。これは一体どういうことか。小野教授は、「入試が多様化したことや推薦・AO入試が起因している。入試の多様化は、同じ大学や学部でも学生の学力のばらつきが激しく、授業が成立しづらくなっている」と指摘し、「勉強を習慣づけるためには補習授業にも成績評価を取り入れたほうがよい」としている。これが一部であるにしても、現代の大学生の実態とするならば、じつに困った現象である。

 大学経営のために、安易に大学生を受け入れる傾向も考えられるが、これでは高等教育機関としての大学の位置付けも危うくなっている。まったく笑い事ではない。

 たしかに私が英検在籍当時のことではあるが、某国立大学の学生が英検5級不合格ということがあった。推薦入試のひずみが、こんなところに出てきていることを如実に感じたものだ。多様化された入試が普及すると、必ずしも英語力を測る必要もないだろう。しかし英語力が貧弱だとすると、これからの大学の授業にはついては行けない。まともな学問は身につかない。

 だからと言ってちょっと考えてみても、大学で補習授業を受けたから直ちに基礎学力がついてくるものでもないことは、誰だってわかる。矢張り大学では高等教育機関として、専門課程を教えかつ研究するところが本来の姿であろう。

 英語はもとより数学だろうが日本語(国語)だろうが、基礎学力としてこれを教えるには、小学校から高校までの課程の教師こそが、指導内容や指導技術が数段に優れている。これには誰も異存はなかろう。この段階の教師たちは、自らタッチする課程の教授法を学び、研究している。自腹を切って休日を使い、指導法の研修会やセミナーなどに参加しては、先輩教師の体験を聞き、それに基く指導法を学び勉強をしているのだ。研究室に篭もり専門分野に浸かりきっている大学教師よりも数段優れていることは間違いない。

 そういう環境の中で学んで来たはずの大学生が、大学の門をくぐって再び基礎学力を教えてもらっているということは、何を物語るのか。小・中・高校時代、どんな教え方の下に何を学び、どんな基礎学力を身につけてきたのか。教え方とともに、学ぶ側にも問題がありそう。

 話は飛ぶが、今朝も混んでいる電車の中でいい若者が、分厚いマンガ雑誌を広げては読み耽っていた。電車内が益々混んできて、広げた雑誌が邪魔で顔をしかめられようが、そんなこと一向に気にする様子もない。じろりと睨み返している。電車が混んできたらどうするか。気働きなどというものは微塵も感じないのがこういった若者だ。

 別にマンガ雑誌を読むなというものではない。マンガも日本の立派な文化だというが、こういうものは読むときがあり、読む場所があろう。敢えていい若者がとはいわないことにしても、こういう若者に中学校時代、高校時代、キミはどんな勉強をしたの?と、聞くことが野暮だろうか。

 こういう若者を相手に教科指導だといって勉強を教え、学び方まで教えなければならない先生方は本当に大変なことと思った。その上クラブ活動、生徒指導、地区・地域との連絡や保護者との連携作業、修学旅行にも一緒しなければならないし自分の生活だってある。

 大学生の基礎学力の低下、朝からマンガ雑誌に没頭する若者、専門分野はさておいて大学生の基礎学力を指導する大学の教師たち。そして教科指導以外に大半の時間を取られる小・中・高校の教師たち。若者の自業自得、自己責任など、いろいろな思いが頭の中を駆け巡ってはいたが、最早そんなことを言っているときではない。

 これからの日本を背負って立たなければならない若者たち。言われて直す素直さも不足している。せめて言われなくても、自ら気付かせる方法はないものか。わが国の教育の実情を、国民の一人ひとりが改めて考え直す時が来ている。

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