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フォーラムレポート

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英語教育東京フォーラム(2008.09.17)

叱ること、教えること
       大 釜 茂 璋(NPO法人 教育情報プロジェクト代表)

 自分がわかっていることは他人もわかっているはず、と決めつけていることはよくあることだ。腹の虫の居所が悪くついいらいらしながら、「そんなこともわからないの」と叫んでしまうことも無きにしも非ず。人間はとかく気分に左右されがちなものである。

 そうかといって叱らずにすめばそれに越したことはない。しかしなかなかそうはいかないのだ。上手に生徒を叱るということは、教師として身につけなければならないテクニックですよと、あるベテラン教師が話していたが、叱るとは難しいことではあるが指導者の立場からは、避けては通れないことである。

 先日若い教師たちと、「上手な叱り方」をテーマに話し合う機会があった。

 生徒を前にして、どうしてこの子らはこんなにも覚えが悪いのだろうと、ついヒステリックな行動をとった経験のある人も、一人や二人ではなかった。平素気持ちが穏やかなときは、すこぶる愛情をもって、優しく生徒に接しようと心がけていても、そこはやはり悲しきかな人間の性。感情が高ぶって大声で叱ったり、教師の身でありながら拗ねてみたり。時と場合によりますがねと、照れ笑いしながら話す教師もいた。

 しかし一旦ヒステリックに声を張り上げると、平素良好に保ってきた生徒との関係を修復することはなかなか難しいものだと語るベテランの教師。関係修復には工夫がいるわけで、そこが上手にできるようになれば教師も一人前ということだと。若い教師は生徒を叱っても、反発されたりふてくさったりされると、どうしようかとおろおろしてしまうことがある。関係修復の方法やタイミング、まさに時と場合が微妙に絡み合う。

 自分が知っているからといって、「そんなことは分かっているだろう」「どうしてそんなことが分からないの」といった発言や態度が出るうちは、まだ成熟していない証拠ですよというベテラン教師の発言には重みがあった。

 そんな話をした何日か後のことだが、面白い経験をした。東京女子医大病院という、都内ではよく知られた大病院での話しである。

 その日は年に二回の目の定期検診日。診察をした若い女医さんが、今日は奥の部屋で眼底写真を撮っておきましょうという。奥の部屋といっても、患者の待合を兼ねた廊下を隔てて幾つか部屋がある。どの部屋のことだろう。たった一人、椅子に座って待つこと15分ぐらいか。

 突然甲高い声で名前を呼ばれた。何事かと部屋の中へ入って行くと中年の女性技士が、「ケアルームはこの部屋です。(白っぽいようなトレーを持ち上げて)ここに診察券を置き、この椅子に座って待つのです」という意味のことを早口にまくし立てたものだ。この部屋がケアルームと呼ぶなんて知らないし、大体奥の部屋なんてどの部屋か分からないではないか。どこに診察券を置けなんて、そんな説明を聞いたこともないと、あえて反抗的と思われる態度をとって自分の気持ちを表現した。「何言ってんだ!」という気になったのも事実である。なにしろこちらは受身の立場にあるから弱い。言った人、言われた人、お互いに複雑な気持ちでカメラの前に座った。

 そのときふと先日、若い先生方と話したことを思い出したものだ。別にこの技士は私を叱ったつもりではなかっただろうが、私からすれば叱られたも同然に受け取れたのである。教師と生徒の気持ちか。この場合、生徒は無知だし立場上も弱い。

 常にそこに勤務する技士からすれば、患者は医師から、何らかの指示を受けたらその部屋に入り、白いトレーの上に診察券を置き、患者が座る椅子に腰をおろして順番を待つことは当たり前のことであり、そんなことは教えなくても当然そうするものだと思い込んでいる。しかしそんなところへ滅多に行くこともない、あるいは初めて行く患者には知る由もないのだ。

 教える立場に立ったときの、当たり前とする思い込み。知らないままに、それに従わなければならない生徒の気持ち。複雑な気持ちになりながらも、体験的な勉強をした気になった。

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