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フォーラムレポート

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英語教育東京フォーラム(2011.3.23)

大地震の日の教師たち

       大釜 茂璋(NPO法人教育情報プロジェクト 代表)

 東北・関東大地震が発生し大津波が襲った日、それは金曜日の午後でしたから明日からの土日をどう過ごそうかと、頭の中では楽しい思いを巡らせていた人も多かったと思います。

 各学校は午後の授業も終わり、帰り支度を始めていた生徒、この週最後のお喋りを友人と楽しんでいた生徒、中には部活で汗を流していた生徒も多かったことでしょう。春先の陽気は校庭の隅々まで暖かい風を送り、甘い香りを放ちながら白梅が満開だった学校も多かったことでしょう。

 東京は九段の事務所。最初はがたがたと何か音がしたような感じで、「おや、地震?」と思って顔をあげると、同時にぐらぐらっと大揺れが来て、同時にあちこちの建物や部屋から「きゃあ」とも「うおーっ」ともつかぬ大声が聞こえてきて、本格的な揺れが随分長く続いたように感じました。

 直下型だ、横揺れだ、いろいろと声が聞こえますが、はたしてどう揺れているのかよくわかりません。平常時には「地震の時の心得」など、テレビ等でもよく放送されていますが、いざ現実に大きな地震に接してみると、なかなかテレビで教わったようにはいかず、足が思うようには動かずに前へ進むだけでも苦労するほどでした。
 そういう中で学校の教師たちは、自分のことよりも先ず生徒を守る、生徒はどこでどうしているかという心配が頭を掠めたといいます。教師の経験のない私などは、動かない足を何とか動かして外へ逃げようと努力しますが、教師としての感覚は先ず生徒。生徒を守る、生徒を安全な地帯に誘導する、こういうことが頭の中を廻り、子どもの安全誘導第一の感覚は身体の隅々にまで染み透っていたようです。東京の港区立赤坂中学校の北原延晃先生からも当日の様子をお伺いしました。まさに大地震時、その時の赤坂中学校ドキュメント。後に掲載します。

 『e-pros通信』3月19日号で紹介した千葉県T大学附属高校の、房総半島の銚子で遭遇した今度の大地震では、教師たちの涙ぐましい二日間にわたっての奮闘。これを読んだ多くの教師たちの胸を打ったようでした。教師たちの思いは同じ。例えばこのように旅行先で事故に遭遇した場合は、何としてでも先ずは無事に学校へ連れ帰る、そしてどんなことがあっても親元に引き渡すまではと、教師としての責務が強い信念となっての行動であることがよくわかりました。「恐らくは夜も眠ることなく生徒たちの傍で一晩を過ごしたこととう」と付き添い教師の労苦を偲んだメールもありました。

 それは旅行には参加しなかったが学校で地震に遭い、学校で生徒と一晩過ごした他の教師も同じことだったようです。生徒が教師の傍にいるうちは、たとえそれは夜中であっても、教師は気を抜いているわけにはいかず、緊張した夜を過ごしたようです。

 『e-pros通信』3月19日号で、「バスで学校にたどり着いた生徒たちを先生たちは拍手で出迎えた」と表現したところ、出迎えた先生たちも疲れ果て拍手も沸かなかったと訂正が入りました。これはドキュメントをまとめた私の勇み足。申し訳ありませんでした。
お詫びいたします。

 ところで港区立赤坂中学校のドキュメントです。北原延晃先生から頂いたメールからほとんどそのままリライトしたものですが、都心の学校の迫力ある当日の様子です。

昨日の地震は本当に怖かった。昨日は3年生を送る会で、午前中の出し物が終わり、体育館で全校でお別れ給食を食べ、午後の球技大会が始まってしばらくしてからのことでした。私は宮崎から来た先生の応対をしていたところ、校舎が一気に揺れました。すぐに体育館前の校庭に駆けつけましたが、揺れのせいでちゃんと走れません。

 体育館のガラスが紙のようになびく中、生徒たちが飛び出して来ました。すぐ前の東京ミッドタウン(超高層ビル)が大きく揺れているのが見えました。プールの水が大きく跳ねて外へこぼれ出しました。海の方向からは火災か、真っ黒な煙が立ちのぼるのが見えたそうです。赤坂中が立つ場所は、江戸時代から続く固い岩盤の高台です。だから少しは安心感はありましたが、そうでなかったら地割れや液状化を心配していたことでしょう。

 大きな余震が続く中、近隣の方々や観光客の方々が続々と学校敷地に避難してきました。それらの人々のためにブルーシートを敷いたり、トイレの案内をしたりで、大災害が起こったときには生徒のことだけを考えているわけにはいかないのだということに思い至りました。トイレを借りに来たある女性は顔面蒼白で「私神戸でも被災したんです」と唇を振るわせていました。

 教員が手分けして生徒を送り届けるうちに町の様子がわかってきました。ミッドタウン前の広場はビルで働く人々や客でいっぱい。六本木交差点に至る裏道のあちこちには警察による立ち入り禁止の表示が。道路は車で渋滞していて進まない。地下鉄が走っていないので、バス停には長蛇の列。コンビニには食料買い出し客が殺到。

 学校に戻ってきた後は体育館に避難してきた方々に暖かい飲み物を提供したり、マットレスを引いたり、家に帰れない生徒たちに飲み物と食べ物を配り、明るく励まし・・ 仮眠を取れたのが午前2時でした。その後も強い余震や長野県や新潟県の地震でろくに眠ることはできませんでした。「緊急地震速報。あと○○秒で強い地震が来ます」という放送が流れるたびに寝ている図書室の大きな机の下に転がり込むことがずっと続きました。

 東北地方、長野県、新潟県などではまだ地震が続いています。どうぞお気を付けください。(引用終わり)

 今朝も比較的大きな地震を感じました。テレビから地震警報が流される都度、震災に遭い、その地で頑張っている大勢の人々の苦しみを偲びます。東北人は心優しく我慢強いと言われますが、これは昔からじっと耐える環境の中で過ごさざるを得なかったこの地の歴史的特質かも知れません。
 
 しかし今日から始まった春の高校野球でも、この災難は東北や関東の一部だけのものではなく日本全体で分かち合おうと、「がんばろう日本」と選手宣誓のなかでも力強く触れていました。苦しみは分かちあい、支えあい、励ましあって頑張ることで、脱することができるのです。日本人の持つ底力は、この不幸から手を携えて脱却する力となって明るい未来を招きよせることができるのです。みんなで頑張りましょう。

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