もっと身近に誰にでも!

フォーラムレポート

一覧へ戻る

英語教育東京フォーラム(2011.4.21)

花見の宴から英語指導研修会まで
             大 釜 茂 璋

 雪国育ちの私にとって春の訪れは格別に嬉しく、文字通り心躍るものだった。雪のない土地に住む人には分からないだろうが、日当たりの良い、雪の消えかかった土手に黒い土が顔を見せたときの嬉しさは何にも替えがたいものだった。

 くる日もくる日も雪が降り積もり、ときには天地をさえぎる吹雪と化して人々を悩ます。雪の季節、11月後半から3月ごろまで、太陽が顔を出すことも滅多にない雪国の冬。そんなねずみ色の世界から、花咲き、緑が芽生え、雪どけの水流れる春こそは、一気に開放感に浸る明るい季節の到来を全身で感じるときだ。

 それだけに花見の宴は北国ほど盛大で、北国の人は爆発的な喜びに浸る。山の雪の消え方でその年の米の出来を占い、土地の古老は、梅や桜など花の咲き具合でその年の豊作を予言する。

 子どもの頃、雪の消えた田んぼの向こうにこんもりとした、土地の人は単に公園と呼んでいた土盛りの桜の名所があった。花が咲くと地域の大人たちは酒や肴を持ち寄って賑やかに花見の宴を繰り広げる。子どもの目からも、それは盛大な飲み会だった。大声で歌う人、踊る一団、口角泡を飛ばしただ喚きちらしている人、大いに酔っ払いダウンしている人もいる。

 しかし今思えば、あれはまさの春の到来を喜ぶ農民たちの、素朴なお祭りではなかったか。ずんどこ節でも歌われるように、お神酒を喜ばない神はいない。どこの神様でもお酒は好きと見える。公園にも小さな祠があった。だから花見は春の到来を喜ぶ神様と同化した農民たちの、春を迎えて喜ぶお祭りなのだ。伝統的な文化でもある。

 話しは変わる。今年は東日本大震災を受けて自粛を理由に、各地で花見の宴は中止された。東京あたりは上野公園、飛鳥山、隅田川公園、靖国神社も千鳥が淵も、市ヶ谷の土手も、どこも火の消えたような春になってしまった。花見のぼんぼりは撤去されたし、夜のライトアップも消された。どこもかしこも暗闇の中で花見客はごそごそ弁当など食べて、一部の集団はそそくさと街の酒場へと吸い込まれていった。

 東京の花見といえども、春の到来を喜ぶ祭りであることに代りはない。いずれ農民たちの祭りが街場の祭りに変形しただけの話である。気がつくと大学の卒業式は中止。入学式も中止にしたところが多い。ついでにe-prosフォーラムも止めたらどうかなどとお節介な電話すらあったのには些か呆れた。中止の理由はない。フォーラムは実施した。

 花見の宴は、震災に遭った人々が苦労しているのに花見などと浮かれて騒ぐのは不謹慎と、理由があげられていたがわからないでもない。かといって教師の研修会まで自粛したらと言うのは意味がわからない。

 教師の本分は何か。街頭に立ち義捐金を集めることも節電に協力することも決して無意味ではないが、知識を磨き、指導技術を磨いて教壇に立つことこそが教師の役目。e-prosが毅然と3月27日のフォーラムを実施したことに感動したという励ましのメールを頂戴したこともあり、すべてが自粛ムードに流れていた社会動向を冷静に眺め判断することが出来て、混乱状態にあった頭の中がすっきり整理された。何もかも混沌とした、今年の花の季節ではある。(おおかま しげあき NPO法人教育情報プロジェクト代表)

一覧へ戻る


top