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フォーラムレポート

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英語教育東京フォーラム(2012.2.29)

英語 教えるに当って
                     渡部 亮次郎

 日本に生まれれば自然に覚えるのは日本語である。しかも田舎に生まれれば田舎弁を覚える。私の英語はニューヨーク訛りで日本語は秋田訛りだ。アメリカ語は50歳を過ぎてから強制的に覚えたものだから、日に日に忘れてゆく。

 これについては14歳までに覚えた言語は死ぬまで忘れない、という研究があるそうで、私の場合は18歳まで秋田で過ごしたから、直ったようでも秋田訛りはどこかに死ぬまで残るだろう。
 
 後輩の1人の高級官僚。財務省にトップで入ってすぐケンブリッジに留学。3年勉強してIMF(在ワシントンDC)に赴任を命じられた。本場で英語を3年も勉強して行ったのにアメリカの英語が3日ぐらいは全く理解できなかった。アメリカ語はアメリカ語であって厳密には英語とはいえないから当然だった。しかも国力の差からして今後、世界の言語を左右するのは英語ではない、アメリカ語なのである。そういえばニュージーランドの「英語」は3日ぐらい分からなかった。

 日本は明治政府になった時、政府が「標準語」を制定した。作家井上ひさしの著作によれば、その時「東京山の手の言葉」が標準語と決まったが、わずかの差で京都弁が標準語になるところだったそうだ。

 ところでアメリカ語には標準語が無い。移民の国だから当然であろう。しかも本場イギリスに至っては階級によって訛りが違うというのだから厄介だ。

 日本で今の英語教育は「話せる英語」を政府から強いられているように思うが、そういう政府の役人自体、何を以て英語となすか、分ってはいない。

 ケネディー大統領時代に発足したのが日米教育文化交流会議=CULCONが日米文化交流の原点なのだが、日本では主導権を外務省に握られ、アメリカのパートナーである教育省は、共和党政権になると常に廃止の憂き目に遭うから力が無い。

 私も何回かワシントンでのCULCONに出かけたが、会議はしばしば地下室で開かれる始末だった。政府が異文化交流に関心を示さず、カネを出し渋るからである。

 最近は開催されているかどうか、ニュースにすらならない。このことからしても日本における英語教育の責任は、これを担当する教師一人ひとりの肩に架かっていると言わざるを得ない。

 英語教師にはそれだけ自由があり、楽しいということになろう。ただ英語教師にお願いしたいのは、生徒に対して、「君たちになぜ、今、英語を習わせるのか」を最初に説明してやってほしいということだ。「今の頭脳は柔軟で覚えやすいから」と。

(わたなべ りょうじろう 元外務大臣・厚生大臣秘書官、社団法人日米文化振興会
理事長を経て、現在NPO法人教育情報プロジェクト理事、メルマガ「頂門の一針」
発行主宰者)

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